今宵、グラスに月を満たして
テントの中にいても月光が眩しい。昼間のような激しく強い光ではないが、どうにも目の冴える明りが降り注いでいるなとカインはぼんやりと考えた。と、急に見覚えのあるシルエットが現れ、穏やかな光を遮った。 「カインさん、ちょっとお酒に付き合ってくださいよ」 地上を癒すように照らす光の音でも聞こえそうだと思っていた矢先、静寂をぶち壊すようにカインの元にひょっこり現れたのは、相変わらず能天気な顔をしたネミングウェイだった。夜ともなれば不死の者たちが調子付く山の中、ここまでどうやって登ってきたのかは定かではないが、彼は酒のビンを抱えている。 「またおまえか」 「まぁまぁ、そんな事言わずに。テントから出てみてくださいよ、月がきれいですよ。あれを肴に一杯行きましょうよ」 ネミングウェイがテントの扉をばさりと開けると、周囲の雲までも幻想的に照らしながら輝く大きな月が覗いていた。闇に浮かぶ満月の、静かだが吸い込まれそうな白さにカインは思わず目を細める。闇とは言うものの、夜空は漆黒ではないと教えるように優しく微笑んでいる月は、周囲の空を柔らかな濃紺に染めていた。 「今日は月を愛でる日なのでね、こうやってお誘いに来た訳です。私の故郷はもう肉眼では見られない所に行っちゃいましたから、一人で郷愁に浸るのは寂しいんですよ」 テントから出てきたカインに向かってニコニコと語りかける彼に寂しさのようなものは微塵も感じられない。だが、確かに彼の故郷は消えてしまったもう一つの月なのだから、複雑な心中が判らなくもない。 「妻がいるのだから、彼女と一緒に眺めたらどうだ」 カインがそんな事を提案したのは、決して嫌味からではない。昼間はまだ暖かいが、日が落ちれば吹く風は肌寒く、今もカインの頬に触れる空気は澄んだ夜の匂いを含んでひんやりとしている。だからこそ一層、月が冴え冴えとして見えるのだろう。 ネミングウェイは長い旅路の果てに幸せを分かち合う者を見つけたのだから、こんな殺風景の山などではなく、暖かい家の中から二人で夜空を見上げる方が幸せを実感できるというものではないかと言いたいのだ。 「私の感傷に付き合わせる気はありません。彼女には、月は綺麗なものだと思わせておきたい。月には眩しい程に美しく、建物自体が輝く水晶のお城があって、毎晩紳士淑女のパーティーがあるんだそうです。そこでは瑠璃や瑪瑙を身に付け、星屑をちりばめたドレスをまとった女性達が踊りさざめく夢のような場所だとか。流星を競わせて、どの星が一番早いか賭けをしていたりもするそうですよ。面白い発想ですよね、実際はあんなに殺伐とした所なのに。それもこれも、ここから見るとあんなにも美しいからでなんでしょう」 「月の民の館は水晶の城と言ってもおかしくはないが――現実を知る俺なら付き合わせてもいいと言う事か」 地面に腰を下ろしたカインに向かって酒を注いだグラスを渡しながら、目を細めたネミングウェイが呟く。 「セシルさんに声をかけようかと思いましたが、色々と思う所もあるでしょう。あの人の傍には事情をよく知ったローザさんもいますしね」 グラスに口をつけるカインではあったが、ローザの名前が出た瞬間、眉間が僅かにしかめられる。だがネミングウィは気づかないのか言葉を続けた。 「カインさんにとってみれば月には嫌な思い出しかないかもしれませんが、でもあそこに残ったゴルベーザさんの事を、嫌いだった訳じゃないでしょう?」 うっとりとするように芳香に鼻をひくつかせた後で自分も酒を楽しみ始めたネミングウェイの言葉に、カインはグラスを落としそうになる。 「どう言う意味だ、それは」 「操られていたんだから、あの人の事を憎んで当然。でも、嫌いだった訳じゃないと言いたかったんですが、何か問題でも?」 「おまえの想像力の豊かさには開いた口が塞がらん」 「ははは、そんなに見当違いな事を言ったつもりはないんですがね。――お互いそれぞれ思う所はあるでしょうから、しみじみとしてみるのもたまにはいいんじゃないですか。一人だと、どうも切なくなりすぎてしまいますが」 カインはグラスの中身を煽りながらも、ネミングウェイが中々鋭い所を付いてきた事に内心驚きを隠しきれない。 …それまで順風満帆、平穏だった人生は――いや世界は、ゴルベーザのせいで何もかもがめちゃくちゃになった。陛下は殺され、自分は弱さに漬け込まれたとは言えローザをさらう片棒を担いだ。一度は正気に戻ったものの、再び心を奪われた挙句にセシルから最後のクリスタルを奪ったせいでバブイルの巨人は目覚め、エブラーナの大地は無残にも抉り取られた。 カインが操られた件は自業自得とも言えるのだが、ゴルベーザのおかげで一体どれだけの血が流れたのか、大切な物が失われたかは判らない。ダムシアンは壊滅状態になり、ファブールやミシディアでは幾人もの犠牲が出たはずだ。 だが、彼自身も操られていたと知って、散々利用されたはずのカインが彼へと抱いていた気持ちが変わったのは確かだった。そして今、どんな感情を向けても届かない遙かに遠い場所へとあの男が消えた後、自分に残った感情とは一体なんだったのか。 このウサギもどきの言葉を発端に、カインは自分の気持ちを振り返り、分析し始める。 彼に対して抱く感情は、少なくとも嫌悪ではない。カインが戦力として有能だったからなのかも知れないが、優先的に高価な装備を与えてもらった事を始め、随分と重宝し、優遇し、また地下への鍵を預ける程に信用されていた。それもこれもすべて計算ずくだったのかもしれないが、それにしてはやや合理性に欠け、妙に爪の甘い所もあった。さすがはセシルの兄と言えば笑えるのだろうか。 ゴルベーザは冷徹で何を考えているのか判らない所はあったが、カインが出すぎた真似をすれば感情的に叱責したり短気な言動が見受けられたりと随分と人間臭い所もある人物だった。四天王の三人までが失われたとは言え、最強の配下であるルビカンテという駒がいるにも関わらず単身でドワーフ城に乗り込む豪胆さもあり、決して得体の知れないだけの無機質で不気味な人物ではなかった。 思い起こせば人質としてさらってきたローザを丁重に扱う事もなかったが、きちんと食事を与え、乱暴を働く事もなかった。セシル達がゾットの塔の最上階に到達しようがしまいが最終的に彼女を殺すつもりでいたらしいが、その割には比較的まともな扱いをしていたのは確かだ。ゴルベーザの配下の魔物達は若く美しい彼女の体を欲していた者ばかりだというのに、触れる事は勿論不用意に近づく事すら禁じ、おかげでローザは無傷でセシルの元に帰ることができたのだ。 ローザに想いを寄せるカインの気持ちを利用しているからこその配慮だったかというと、それはどうだろうという否定と疑問の気持ちが湧き上がる。 疑問といえば、カイナッツォとバロン王を摩り替えさせたのだからバロンの城下町を掌握する事も不可能ではなかったはずなのに、それをしなかった事も引っかかる。城下町の人間を人質として盾に取れば、向かい来るセシルを手も足も出せない状態にするのは簡単だったろうに。 カイナッツォとベイガンの力を過信して、彼らならばセシルを葬れると思っていたのだろうか? だがカインの目で見る限り、そんな素振りはなかった。彼は四天王の能力を認めてはいても信用していた訳ではなく、単純に手足となる部下という感情しか抱いていないようであった。 いや、順序が違うな、とカインは頭の中を整理する。 バロン城下町の人間などよりも、捕らえているローザを最初から盾にすればセシルの行動など完全に封じる事ができただろうに。そういった手があるという事を忘れていただけだろうという気も、今ならばしてくる。あの頃はエブラーナの攻略も同時進行していたから、さすがのあの男も疲れていたのかもしれない。 ゴルベーザがローザを盾として使わなかったのは、正々堂々としていたからではないだろう。土のクリスタルを持ってきたセシルにローザを返還しなかった点を見ればセコイ小悪党のような趣だってある。だとすれば、自分の手駒を倒しながら成長を遂げるセシルとのやりとりを楽しんでいたのだろうかという気もしなくはない。無論その関係は自分が君臨するゾットの塔で終わらせるつもりだったのだろう。 振り返ってみれば、ゴルベーザは興味のないものに対してはまったくその力を働かせる事がないようであったが、逆を言えばセシルは実に興味深い存在であったのだろう。 もっともその無関心のおかげで、少なくともその分だけ、流れる血は少なくて済んだのが唯一の救いだ。 エブラーナとて全滅もさせずに、将である王と王妃を捕らえただけで残りを深追いする事もなく、非力な民の事はわざと放っておいたような気配すらある。自分に歯向かう物に対しては容赦ないが、そうでないものについてはどうでもよかったのかも知れない。 だからローザをさらうような事はしても、同じ場所にいた召還士の小娘には見向きもしなかった。その甘さ故にドワーフ城で成長した小娘ことリディアに返り討ちにされるような事にまでなってしまうのだが。 彼はカインのように意識を残したまま行動していたようには見えなかったが、カインが甘いと感じる部分に関しては、どこかで良心が働いていたのだろうか。今となっては問う術もないが、疑問は尽きない。自分が彼を嫌悪していないのは、その甘さに人間らしさを感じたからだろうか。 しかし今考えている事はすべて憶測にしか過ぎない。彼の忠実な部下として傍に仕えていたにも関わらず、分かる事はあまりにも少なく、果たして自分はどこまでゴルベーザという男を知っていたのだろうかという軽い驚きすら覚えながら、カインは尚も彼に関する記憶を辿る。 やはり鮮烈に覚えているのは月の最深部でフースーヤと共闘している姿と、月の民である叔父と共に去る最後の光景だ。 ああ――そうか。 最後の別れの瞬間、去り行くゴルベーザに向かってセシルをけしかける事ができたのは、嫌いだった訳じゃないからなのだろう。迷うセシルに何かを言わせてやりたかった、兄である彼にその声が届いて欲しかったという気持ちの表れ。 あの瞬間、ゴルベーザへの憎しみを晴らしたいと思う気持ちよりも、彼ら兄弟を繋ぎとめる何かを欲する気持ちが勝った。 それはカイン個人としてはとっくに彼の事を許していたからなのだろう。禍根があるのならば、詫びる言葉もなく何も償わずに去る彼に対して恨み言の一つでも言っていたはずだ。 己のしでかした行為と結果を熟知しているが故に敢えて謝罪などせず、操られていたからなどと言い訳もせず、全てを抱えて月に留まると決めた彼を哀れんだ訳でもないが、それでも、実の弟であるセシルと会う事はもう二度とないだろうと予感させる別れに対し、足止めを――それが叶わぬのならばせめて何か一つだけ、救いを持たせてやりたかった。 嫌いだったのならば、そんな事はできなかったはずだ。他の者達とは違い、人の情けというだけではなく、カインはどこかでゴルベーザに共感していた部分があったのだろうと、今ならば分かる。 誰かを憎む事は簡単だろうし、楽だろう。ゴルベーザを憎み続けていられたら、きっと自分はバロンを去る事はなかった。 しかし正気に戻ったゴルベーザを憎みきる事はできなかった。フースーヤと共に去る背中に本当の彼の姿を見出したお陰で、カインはふがいない己に対して強い憤りを感じ、今は一人、こんな所にいるのだろう。 「いつか、あの月はまた帰ってくるんですかねー…」 ほんのりと酔ったようなネミングウェイが空を振り仰ぎ、今はもう見えぬ月へと思いを馳せる。 その言葉を聞いたカインは、いつかまたあの月が戻って来る事があるのなら、今度こそ意識ある人間同士としてゴルベーザと話してみたいと思っている自分がいる事にようやく気が付いた。 思い出を語るには苦すぎるが、本来の自我を持ったゴルベーザと酒を酌み交わすのも悪くはないだろう。その時が来るかは判らないが、どこかで淡い期待をしながら、心に浮かんだ疑問はひとまずお預けにしておこう。 カインは自分の心を整理するきっかけを作ったネミングウェイに心中で感謝しながら、見えない月で深く眠る彼を思い、静かにグラスを傾けた。 |